メサイアのスクリプト:エピソード5、パート2
KENT BROWN:S・ケント・ブラウン: そして、イエスは弟子たち十一人とゲッセマネに到着されます。ユダはもういません。彼らは園の中、オリブ山の低い傾斜地のあたりまできました。イエスは門のそばの入り口近くに八人を残し、ほかの三人を連れてさらに園の奥へと入って行きます。十二使徒を召した最初の時からいたペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人です。
ここで気づくのは次の二点です。一つはイエスを襲っている苦しみの強烈さ。イエスは三人に苦しくて死ぬほどであると言われました。(マルコ14:34参照)私たちの罪や過ちが途方もない大きさで罪もないイエスに襲いかかり、その苦しみを取り除けられるのを望んでしまうほどだったのです。イエスは三人を残し、さらに園の奥へ入って行き、祈りました。これが二つ目です。どの共観福音書もイエスの行動をギリシャ語の未完了時制(imperfect)で表しています。つまり、“he used to do this”, “she used to do that”などに使われている習慣的行動を表す時制です。それはまた、反復行動にも使われます。ですから、イエスは行っては伏して祈り、行っては伏して祈り、行っては伏して祈ったのでしょう。
その動詞が伝えている一連の反復行動は、読者にイエスの経験しているあまりの苦痛を物語っています。ただ一度祈ったわけではありません。体を起こし少し楽にして、また伏して祈りました。書かれていることがそのまま伝わって私に訴えてくるのがこの場面です。イエスはこの時、深く計り知れないほどの苦しみを私のために経験されていたのです。
CECILIA M. PEEK:セシリア・M・ピーク: ルカはキリストのゲッセマネでの苦しみについて、ほかの福音書の著者が書いていない大変心を動かす出来事の詳細を描いています。その記述の信憑性はモルモン書と教義と聖約の両方で確認することができます。ルカが書いたのは、Kai genomonos en agonia, ektenesterone pros ao heto. Kai agenoto hohedros, al tu hose thromboi haimatos katabainontes epi taingain で、その訳は、「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)となります。
ここにはいくつか貴重な記述があります。一つはギリシャ語でagonia、苦しみもだえているという意味です。これはギリシャ語の agonから派生した語で、これは運動競技に言及してよく使われます。つまり、研究者たちはルカの記述から、イエスが血を滴らせているように汗を流されていたという解釈をし、単純に競技前の選手が抱くような高まる不安を示していると理解しました。興味深い解釈だと思います。
LDSの聖文研究者たちはそれが本当に血であったと信じ、その他の研究者たちはルカの解釈を取っていますが、鍵となる言葉はhosで、副詞的に使われているのか、あるいは形容詞的に使われているのかという問題で、言い換えると、ルカが本当の血の滴りと言っているのか、あるいは血の滴りのようであると言っているのかという問題になります。ほかに追加の情報がなければ、そこでルカが意味したのは二つのうちどちらのタイプのhosの用法だったのかを確実に知る方法はありません。しかし、私たちにはもう一つ、回復された聖文があります。モルモン書のモーサヤ書でモーサヤ王は、キリストはあらゆる毛穴から血を流されたと、また教義と聖約では、主ご自身が聖文のどこでもそうであるように、最もはっきりとした明快な言葉でご自分の贖罪の苦しみについで語っておられます。
イエスはご自身の苦しみについて次のように表されました。「その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみをうけたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」(教義と聖約19:18)
もしルカが実際何を意味しているのか疑いがあるならば、キリストがはっきり言われると思います。実際、あらゆる毛穴から血を流したと。
MARILYN ARNOLD:マリリン・アーノルド: モルモン書は贖罪の無限の本質についての理解を広げてくれます。infinite atonement(無限の贖罪)という言葉がモルモン書にのみ現れ、モルモン書の話者だけがその言葉を使うのは興味深いことです。実際infinite(無限の) は聖書に3回使われており、3回とも旧約聖書に現れますが、イエス・キリストの贖罪に関連して使われている箇所はありません。ですから、これは贖罪とは何かという意味を無限という言葉を使うことで広げる新しい考えです。
贖罪を通して、死すべき体を持つ私たちは死と地獄から救われるのです。私たちは死んだ体と死んだ霊から解放されます。ヤコブはこの点について大変簡潔に説明しています。この犠牲は神の御子で、無限かつ永遠であり、神以外の何者もこの無限の贖罪を成し遂げることはできませんでした。ですから、その贖罪は無限です。それは、その犠牲が神の御子であり、無限かつ永遠の存在だからです。
JOHN S. TANNER:ジョン・S・タナー: 罪を積み重ねることなくこの世の生涯を終えられる人はいません。ですから、私たちの毎日の生活に贖罪が必要なのです。主が毎週聖餐の儀式を通して私に決意を新たにする機会を与えてくださるのを感謝しています。私は聖餐の祈りの中のwilling(よろこんで)という言葉が好きです。「喜んで主の御名を受けますか」と尋ねているからです。そして私は思うのです、「主よ、喜んでそうします。今週完全ではなかったかもしれませんが、福音に従うようもう一度決意を新たにします」。それを可能にする唯一の道は主がご自身を犠牲にすることでした。そして、私たちがそこにたどりつく唯一の道は、主が私たちの力をイエスの御力と結ぶことを可能にしてくださること、またイエスの御力によって私たちの力を大きくしていただくことです。そして、主はただ私たちを許してくださるだけではありません。私たちを助けて、私たちが到達可能な領域にいたるのを助けてくださいます。しかし、私たちには是非とも主の助けが必要です。私はその助けが毎日必要だと思います。私たちの課題は時に大きく、時に難すぎるからです。どうやって私たちはそれを乗り越えられるのでしょうか。主は恵みによってそれが可能になるのです。
VIRGINIA PEARCE:バージニア・ピアス: 自分ができることは何でもするという責任と、主の責任、つまり自分のできないことを主が補ってくださるとの誓約の間には、すばらしい相乗性があると思います。それは神の慈悲の現れです。主は喜んで私たちを許してくださるだけでなく、痛みを取り去り、私たちが傷つけた人々の傷さえ喜んで癒してくださいます。私たちが励んで働き、できるだけの努力を精一杯するならば、主の恵みはいたるところにあり、私たちの生活に影響を与えているのがわかります。
MARILYN ARNOLD:マリリン・アーノルド: イエスのゲッセマネでの祈りはとても、とても簡潔で、とても、とても心を打たれる祈りです。私たちが深く感動するのは、イエスがこの祈りに魂を注ぎ込んでいるからだと思います。イエスはどんな厳しい試練が待ち受けているかご存知で、愛する天父に心を込めて祈っていたのです。私たちはこの祈りからたくさんのことを学びます。それは私たちの生活に生かせることだと思いますし、イエスと天父のすばらしい関係を学ぶことができます。
マルコ伝にあるイエスの祈りとその言葉は、ほかの三つの福音書にあるのとほとんど同じです。ただ、マルコはAbbaという言葉を加えています。イエスは天父をAbba, Fatherと呼んでいます。これはイエスと天父の親密な関係を表しています。私たちの中には、時として天父が遠い存在に思えて交信などできそうもないと感じている人、恐れてフォーマルな言葉で祈らなければならないと思っている人もいると思います。しかし、主が私たちを愛してくださっていることを本当に理解できれば、主とよい関係を築くことが可能になると思います。
そこでイエスは天父にご自分を救い主の使命から解放してくださるように求めています。そして次のように言われました。「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」(ルカ22:42)
CYNTHIA HALLEN:シンシア・ハレン: 苦しみと悲しみ、絶望、失敗への恐れ、受け入れられないことの痛み、思慕の念、郷愁、愛する人たちと再会する望みなど、イエスはさまざまな思いを経験されました。そのおかげで私たちは死を越えて喜びと美しい思い出を持ち続けることができます。 イエスは文字通りそれを可能にされたのです。私たちに偽りの喜びや飾り立てたまがいものの幸せを与えたいとはお思いにはなりませんでした。イエスは私たちに、イエスの内にある完全な愛、天父の内にある完全な愛を持つ本物の喜びを経験してほしかったのです。
BRENT L. TOP:ベント・L・トップ : イエス・キリストの贖いはきわめて個人的なもので、それは私という人間を全く変えてしまいます。私の望みは変わり、性格も変わるでしょう。それがイエス・キリストの贖いです。贖い、救い、向上させ、愛し、私たちを全く新しい人間へと変えてくれるのです。
KENT BROWN:S・ケント・ブラウン: 新約聖書の中のよく知られているお話ですが、イエスが捕らえられる場面です。陰謀、策略はずいぶん前から始まっていました。ガリラヤでイエスに起こったことですが、イエスが手の動かない男を癒したとき、陰謀者たちは結束しました。
やがて時がきました。ユダは一行をイエスと十一弟子たちが最もいそうな場所に案内しました。それぞれの福音書が書いているのは、ユダがイエスに近づいて口づけすることです。マタイとマルコは両方ともユダがそのようにしたと書いています。ルカはその辺をはっきりさせておらず、実際そうしたとは書いていません。私は思うのですが、ルカはあまりその場面にショックを受けたので、そんな裏切り者が主人に口づけするなどとは考えたくもなかったのかもしれません。
イエスを捕らえようとする者たちが到着すると、イエスは近づいてお尋ねになりました、「だれを捜しているのか」。彼らはもちろん「ナザレのイエスを」と言います。そこでイエスは言われました、「わたしがそれである」。この表現は神の名前を表し、イエスがI am とおっしゃるとき、イエスがおっしゃるすべてほかのことから切り離されます。これらの人々は、何か自分たちに起こりはしないかと、明らかに恐れを抱きます。後ずさりし、後ろにいた人の足を踏んだり、最後には地に倒れたりしてしまいます。とてもまじめな場面ではあるのですが、ちょっと喜劇的でもあるところです。
彼らがまた立ち上がって気を取り直すと、イエスは彼らにお尋ねになりました、「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と言います。そこでイエスはまた言われました、「わたしがそれである」。(ヨハネ18:4-8参照)
RICHARD ANDERSON:リチャード・アンダーソン: イエスがゲッセマネの園で捕らえられたとき、使徒たちは恐れて逃げてしまいました。彼らはイエスを捕らえようとした人々に立ち向かったので、特にペテロはイエスを捕らえようとした人々の一人を傷つけたため、敵として標的にされていました。そのため、使徒たちは自分たちが追われていると思い、どこに身を寄せているかを明かしませんでした。それでも使徒たちはまだ一緒にいて相談し合い、もう一度平静を取り戻して、何が起こったのか、どうして彼らの夢も計画もすべてだめになったのかと考えていました。イエスが彼らのもとを去ると言われたとき、彼らが預言を十分理解しておらず、それがどのように成就するのかわかっていなかったからです。
KENT BROWN:S・ケント・ブラウン: イエスを捕らえ縛り上げると彼らは出発しました。たぶんキドロン谷を下りて門の方へ、来たとき入ってきた町の東側へさらに下りて行き、大祭司の家へ向かいます。
JOHN S. TANNER:ジョン・S・タナー: ゲッセマネで捕らえられた後、疲れきっていたイエスですが、キドロン谷沿いに戻り、この急な階段を大祭司カヤパの邸宅まで登らなければなりませんでした。ペテロと名前はわかりませんがもう一人の弟子が、遠く離れてついて行きます。ペテロが暗闇で待っている間、カヤパの邸宅では永遠の裁判官であるイエスが不法な夜中の尋問で人々に裁かれます。そこでは審理が始まる前に判決は決まっていました。マタイはこの運命の意外な成り行きについて、二日ほど前に数人の裁判官らがこの同じ家に集まって、策略をもってイエスを落とし入れ殺してしまおうと相談していたと書いています。(マタイ26:4,59参照)
ERIC D. HUNTSMAN:エリック・D・ハンツマン: 福音書はその大変な夜の出来事についてドラマチックに場面を描いていますが、イエスが初めユダヤの権威者、次にローマ帝国を治める権威者の前に連れ出されたときに、専門的な見地から何が起こったのかを本当にはっきり理解するための法律上の詳細を、福音書は提供していないことを思い出してください。救い主がどのように誤審され職権を乱用され罪に定められたのか、またユダヤ人の指導者とローマ人の両者が間違った有罪判決にどのように係わったのか、福音書は描こうとしました。ユダヤの裁判が第二神殿の時代にどのように行われていたか、当時の資料から私たちの知りえることはほんのわずかです。多くの情報を提供し、法統治、見解、物事がどのように処理されたかなど記録しているミシュナーと呼ばれる紀元200年頃にまとめられた資料もありますが、多くの場合イエスの時代の実際の慣習を反映しているようですが、残念ながら現実を反映していない部分もあるようです。